フランス・リヨンの銘菓クッサン・ド・リヨンとはどんなお菓子か、材料や購入先、名前の由来を詳しく紹介しますね。
フランス地方菓子クッサン・ド・リヨンとは?
クッサン・ド・リヨン Coussin de Lyonとは、リヨンを代表する地方菓子で、青緑色の四角いクッションの形をしています。クッサン・ド・リヨンとは「リヨンのクッション」という意味です。
ターコイズブルーの鮮やかな色のアーモンド生地(Pâte d’amande パット・ダマンド)の中にキュラソーで香りをつけたチョコレート生地を挟んでいます。
クッサン・ド・リヨンは砂糖を使った小さなお菓子であるコンフィズリーのひとつです。コンフィズリーとは砂糖やアーモンドを用いてつくり、火を通さない小さなお菓子のことを指します。
1960年、リヨンで有名なコンフィズリー店であるヴォワザン(VOISIN)がクッサン・ド・リヨンを考案しました。リヨンとはフランス南東部に位置する街で、ポール・ボキューズをはじめとした美食の街として世界的に知られています。
リヨンの場所
[フランス語名]
クッサン・ド・リヨン Coussin de Lyon / un coussin de Lyon
クッサン・ド・リヨンの材料
分類 | コンフィズリー |
材料 |
|
クッサン・ド・リヨンの購入先
クッサン・ド・リヨンはリヨンのヴォワザン(Voisin)で主に販売されています。そのほかのパティスリーや駅や空港のお土産物屋さんにも置いてあります。価格の目安は紙箱入り350g(24個)で23,00€で、箱の種類によって値段が変わります。
クッサン・ド・リヨンの名前の由来
クッサン・ド・リヨンの起源にはフルヴィエールの丘と深い関係があります。フルヴィエールの丘とはリヨン市内を見渡せる小高い丘のことで、フルヴィエール大聖堂が立っています。

フルヴィエールの丘
話は中世時代にさかのぼります。14世紀にヨーロッパでペストが大流行しました。
ペストとは元々ネズミに流行っていた感染病で、感染すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ恐れられていました。フランスでは人口の1/3〜2/3にあたる2,000万〜3,000万人が死亡したと言われています。
その後、17〜18世紀にも何度か流行し、1643年にはリヨンでもペストが発生しました。
ペストが広まり始めると、リヨンの人々はフルヴィエールの丘にあるマリア像に祈り、7リーブル(libre)のろうそく1本と1枚の金貨をのせた絹製のクッションを捧げました。
リーブル(libre)とは、当時の使われていた重さの単位のことで、1リーブル libreは500gほどの重さです。つまり、7リーブルは3.5kgほどの重さです。
重さの単位は当時は共通化されておらず、時代や地域によって重さが微妙に違っていましたが、1リーブルは人間にとって1日に必要な穀物の重さを基準にしていたそうです。その7日分ですので、とにかくとても大きなろうそくをささげたということです。
リヨンの人々は賢明に祈りをささげました。
すると数日後、突然ペストが治まり人々は救われました。ペストの流行から救われたことに感謝して、1643年にリヨンの人たちはフルヴィエールの丘に小さな教会を建てました。
時は流れ、1843年にフルヴィエールの小さな教会ができた200周年を記念して金のマリア像がささげられました。
そのときから毎年12月8日にリヨンの救済をマリア様に感謝して、街中にろうそくを灯すお祭りが始まりました。これが光の祭典(フェット・デ・ルミエール Fête des Lumières)です。今でも毎年12月8日前後に開催され、期間中は街中が光に包まれるリヨンを代表する大きなイベントです。
金のマリア像ができてから27年後の1870年、フランスとプロイセンの間で戦争が始まります。世界史的には普仏戦争といい、プロイセンは現在のドイツにあたる国です。
プロイセン軍はリヨン方面にも攻め込んできました。
リヨンの人々は再び奇跡を信じ、フルヴィエールの丘の金のマリア像に祈りをささげました。すると、プロイセンの軍隊は停止し、撤退していきました。リヨンの街は戦争から逃れることができました。
リヨンの人々は2度目の奇跡を祝して、フルヴィエールの丘に大きな教会を建てることにしました。それが今のフルヴィエール大聖堂 です。1872年に建設が始まり、1896年に完成しました。
1960年に、この伝説の中にでてくるマリア様にささげた絹製のクッションをイメージして、クッサン・ド・リヨンが作られました。作ったのは1897年に開店したリヨンの老舗コンフィズリーであるヴォワザン(Voisin)です。
それ以降、リヨンを代表するお菓子になりました。
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