中世時代のお菓子の歴史

中世時代に入るとフランスという国が次第に作られていきます。西暦1000年を過ぎた頃から、フランス史が語れるようになってきます。その中世時代のフランスの歴史とお菓子についてまとめました。

中世時代にもパティシエの原型となったパスティシエ pasticiers という職業がありましたが、現在のパティシエとの共通点はあまりありません。パティスリーが今日の意味を持つようになったのは18世紀に入ってからです。中世時代はまだ甘いものを楽しむという習慣はありませんでした。

便宜上、西ローマ帝国が滅亡した476年から東ローマ帝国が滅びた1453年をフランスの中世時代とします。

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キリスト教への改宗

古代ローマ時代、フランスのある地域はガリアと呼ばれており、ケルト人が住んでいました。3世紀に入ると、ゲルマン人がローマ帝国に侵入し、事実上ローマ帝国は東西に別れてしまいます。西ローマ帝国はフランスのある地域を支配していましたが、476年に滅亡してしまいます。ローマ帝国では4世紀にはキリスト教カトリックを信仰していました。

ガリアの地域にゲルマン人の一派であるフランク人がやってきました。まだ、この地域にはローマ人が多く残っていました。

481年、クローヴィスがメロヴィング朝フランク王国をつくりました。

ガリアの地では自然崇拝の多神教を信仰していましたが、この地に多くいたローマ人はキリスト教を信仰していました。そのため、クローヴィスはローマ人の同意なくガリアは治められないことを悟り、496年キリスト教に改宗しました。




フランク人の自然崇拝信仰

フランク人がキリスト教に改宗する前は、自然崇拝の多神教を信仰していました。自然崇拝では神様は森の中にいるとされていました。

お菓子に関する自然崇拝で、例えば、死者に化け物が近づかないように蜂蜜入りのパンをささげる習慣がありました。また、耕したばかりの土地や雨上がりの土地から香りがしたり、水蒸気が登るのは精霊の仕業であるとされていました。植物の神や妖精はお菓子が大好きだったそうです。

これらの風習はキリスト教に改宗したあとも根強く残っていました。

古代ローマ時代末期から中世初期の不安定な時代に平和を呼びかけることができたのはキリスト教でした。ローマ教皇庁は宣教師を送り、フランク王国にキリスト教の布教をおこないました。

ただ、国の信仰が変わったからといって、自分たちの信じているものを変えることは簡単ではありません。だから、なじみのある習慣や祭りにキリスト教の意味を近づけていくことから始めました。元々あった自然崇拝の祭りにキリスト教をかぶせて、キリスト教の祭りにしていきました。自然崇拝では祭りにはお菓子が必要という風習も残すことにしました。

例えば、復活祭 Pâques はもともとは自然崇拝の信仰からきたお祭りです。フランスの冬は太陽が出ている時間は非常に短く、暗くて寒い時期が長く続きます。かつては、その暗い冬が終わって、再生と太陽の光を祝っていた祭りでした。その祭りに、十字架にかけられて死んだキリストが3日後に復活したというキリスト教の意味をかぶせました。

次第に、キリスト教のほうの意味も浸透し、同時にフランク人にキリスト教が伝わっていきました。

こうして、キリスト教はお菓子の歴史や発展にも大きな影響を及ぼすことになります。




修道院の役割とお菓子

修道院とは俗世を離れて厳しい修行と共同生活をして信仰を深め、その祈りと典礼によって社会に救いをもたらそうとしていました。ローマ帝国に支配されていた頃より、さまざまな修道院がフランスの地につくられました。

修道院は大領主として土地を支配しており、農民に小麦などの穀物、ぶどう、はちみつ、卵やチーズなどを納めさせていました。それらの材料をもちいてワイン、パン、お菓子をつくっていました。しかし、それらの材料を作っている農民たちは、お菓子やパンを作ることは禁止されていました。よって、修道院がお菓子作りのパイオニアだったといえます。

修道院ではまず、エウロギアという膨らんでいないパンのような甘いお菓子を作っていました。ギリシア語で「祝福」の意味をもっており、修道士たちは食事前や空腹時に食堂に集まって食べており、修道院長と一般の修道士とが宗教的な絆で結ばれた関係であることを指していました。

エウロギアははじめは修道院で作られていましたが、しだいに庶民の間にも広がっていきました。

中世時代、最初のお菓子といえばウーヴリoublies であり、丸くて薄いホスチアに似た甘い食べ物でした。ホスチアとは聖体パンともいい、ミサの際に信者に渡すゴーフルの一種です。聖体パンとは聖職者の祈りによって聖別され、キリストの体になるとされています。主に、四旬節の日曜日や聖木曜日や復活祭のときに食べられていました。小麦粉、卵、ワインを混ぜた生地を2枚の鉄板の間で挟み、熾火(炭火)のなかで焼いて作ります。ウーヴリを作る職人はウブロイエ oubloyers と言い、1270年にウーヴリを作る特権を与えられました。

ウーブリもはじめは修道院で作られていましたが、しだいに庶民の間にも広がっていき、専門の職人がこれらのお菓子を売るようになっていきました。

十字軍がもたらしたお菓子の材料

11世紀に入ると異民族の侵入や騎士の内戦も抑制されてきましたが、キリスト教同士で戦うことを止めさせるために、ほかの異教徒に目を向けさせました。それが十字軍で、キリスト教徒が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために遠征をおこないました。

当初は聖地の征服を目的としていましたが、アラブの食材がヨーロッパにもたらさるきっかけにもなりました。サトウキビ由来の砂糖や香辛料をはじめ、ヨーロッパにはなかったオレンジやレモン、アプリコットなどの果物を運んできました。

パンデピス Pain d’épices とは香辛料と蜂蜜のはいったお菓子のことで、香辛料がフランスに入ってくるようになり作られるようになりました。

また、アラブ圏では小麦粉とオリーブ油をもちいて折込生地(Pâte feuiletée)を作っていました。十字軍はそれを見て、フランスで妻や家族に伝えました。フランスではオリーブ油をバターに替えて作っていましたが、折込生地は作るのが難しく、不器用なフランスの女性たちの間では広まりませんでした。




砂糖を用いた菓子が誕生

11世紀からの十字軍の遠征により、アラブ世界からサトウキビ由来の砂糖がもたらされました。それまでは蜂蜜や果物に含まれている糖を利用していましたが、主に貴族の館や修道院では砂糖をもちいたお菓子も作られるようになりました。

中世時代には砂糖の甘味成分であるショ糖は薬屋で売られており、17世紀までは医療品だと考えられていました。

貴族の館では、同じく十字軍がもたらした香辛料とともに料理に砂糖を使っていました。ヴェルジュ(酸味のあるぶどう汁)やレモン、オレンジ、スグリ、青りんごからとれる酸っぱい汁に砂糖を混ぜて、甘酸っぱい味の料理が提供されました。

貴族のためのデザート

十字軍の遠征によりアラブ諸国から砂糖や香辛料が導入されたことによって、貴族の館ではそれらをつかった料理やデザートが作られるようになりました。

王侯貴族に仕えていた料理人であるタイユヴァンが書いたフランス最古の料理本の中には、貴族が食事の最後に食べたデザートがたくさん書かれています。

デザート Dessert はこの中世時代に現れた言葉で、動詞 Desservir(デセルヴィール:食事の後片付けをする)に由来しています。塩味の食事が終わったあとに、テーブルを片付けて甘味の食事を出すことを意味しています。

デザートとして、りんごや洋梨、さくらんぼやプラム、イチジク、ぶどう、セイヨウカリンなど様々な果物に砂糖を豊富に加えたコンポートや砂糖煮、クルミやアーモンドのドラジェボンボンヌガーなど当時まだ高価だった砂糖を用いたコンフィズリーが提供されていました。

さらには、フランクレープ、リソルなどの小麦粉を使った素朴な焼き菓子も食べられていました。また、庶民とは異なり、パンには酵母を用いて現在のようにふんわりとしたパンを食べていました。

庶民や農民の素朴なお菓子

一方、庶民の間でも甘いお菓子を食べていました。しかし、当時高価だった砂糖は貴族だけ手にれることができ、庶民や農民は蜂蜜や果物の甘味を利用していました。修道院から伝わったお菓子や小麦粉や卵などを用いたクレープガレットタルトなどを食べていました。小麦粉で作った生地を器にして、その中に果物やチーズ、牛乳や卵で作った液を流して焼いていました。これがタルトの元祖です。さらに、りんごや梨、ぶどう、さくらんぼ、栗、マルメロなど季節の果物をのせたタルトを作っていました。




中世時代に食べていたお菓子

次に、中世時代に食べられていた主なお菓子を紹介します。

中世時代にはお菓子という認識はほとんどなく、パティスリーが広く知られるようになるのは18世紀まで待たないといけません。ただ、中世でも甘いお菓子のような食べものは食べられていました。

中世のフランスの修道院や貴族、庶民や農民の間で食べられていた甘いお菓子を紹介します。

エショデ Échaudés

エショデ Échaudés とは小麦粉を練って小さな輪を作り、湯の中で茹でて、ぶどうの蔓の灰を加えて乾かし、窯で焼いたお菓子のことです。その後、改良してアニスで香り付けをしていました。街角や広場、市場で売られていました。生地を茹でて、再度窯で焼くという作り方は今でも残っており、ブレッツェル Bretzel の元祖と言われています。

ニウール Nieules

ニウール Nieules とは一種のゴーフルのような小麦粉をベースにしたお菓子で、ウーブリと同じものを指していることもあります。軽く繊細で雲のように軽かったといわれています。修道院が聖霊降臨祭(ペンテコステ)に信者に配っていたのをきっかけに庶民の間にも広まっていきました。

18世紀のスタニスラス王も大好きなお菓子でした。

クルート Croûtes

クルート Croûtes とは小麦粉でつくった生地にチーズを挟んで焼いたお菓子。パン職人によって作られるもので、タルトの元祖ともいわれています。

フラン Flans

フラン Flans とは小麦粉の生地で作った器に、牛乳や卵や小麦粉で混ぜた液を加えて焼いたお菓子です。この頃はアーモンドミルクと米粉で作っていました。フランは現在でも全く同じお菓子として食べられています。

パンペルデュ Pain perdu

パンペルデュ Pain perdu とはかたく乾燥したパンを牛乳や卵などの液に漬けて焼いたお菓子です。当時は蜂蜜で甘味をつけ、果物やチーズを添えて食べたのではないかと考えられます。パンペルデュは現在も食べられているデザートで、バターや生クリームを加えてさらにリッチなデザートとして食べられています。

ブランマンジェ Blancs-mangers

ブランマンジェ Blancs-mangers とはアーモンドミルクとゼラチンを混ぜて固めた冷たいデザートです。当時はゼラチンは用いずに、アーモンドミルクに蜂蜜などで甘味をつけたデザートだったと考えられます。現在ではあまりみられなくなったデザートで、同じようなデザートとしてはイタリア由来のパンナコッタがあります。

ガレット Galettes

ガレット Galettes とは小麦粉で作った生地を丸く焼いたお菓子です。パンケーキやクレープ、クッキーなど平たくて丸い生地で作るお菓子のことを指しています。

フワス Fouaces

フワス Fouaces とは白い上質小麦粉でつくったガレットのこと。

そのほか、ダリヨル、フラミッシュ、ゴィエール、キュイニェ、ブリオッシュなどのお菓子を作って食べていました。ほかに果物やチーズを詰めたタルトも食べていました。

リソル Rissoles

リソル Rissoles とはオレンジ水で香りを付けたパイ生地を小さな半月型にして、油で揚げたお菓子。釜で焼くこともありました。また、柔らかいパイ生地にりんご、いちじく、干しぶどうなどを詰めることもありました。

そのほかにもリ・オ・レ(米のミルク粥)パンデピスなども食卓にのぼっていました。




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